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なんとかなるさ ~AYA世代のひとり がんと向き合う気持ち~ その1

今回のインタビューは、AYA世代でがんになった睦月さん(ハンドルネーム、インタビュー時31歳)です。インタビュアーはこころです。2回に分けて掲載します。

私は43歳で肺がんが診断されました。何故この若さでという思いが当時強かったです。しかし、私よりもっともっと若い世代で、同じ病気と闘っている人がいると知り、彼女/彼たちはどんな思いでいるのだろうと気になったのがインタビューのきっかけでした。自分の過去を振り返っても、人生のインプットの時期でいろいろチャレンジをする20代、30代でがんになることは、さまざまな機会を奪われているのではなかろうかと、想像をしていました。

 

しかしながら、今回、睦月さんのインタビューで感じたのが、若々しい軽やかさです。そして、「起きてしまったことはしょうがない、なんとかなるさ」と考えることから生み出される、しなやかな強さです。私が思っていたネガティブな重さを感じさせないものでした。もちろん、インタビューでは話せないこともいっぱいあるでしょう。AYA世代の一人のがんサバイバーの声を聴いてみてください。

 

ところで、「AYA(アヤ)世代」って何と思われる方もいるでしょう。Adolescent and Young Adultの略で15歳~30歳前後の思春期・若年成人のことです。詳しくは、オンコロサイトの用語辞典を参照してください。https://oncolo.jp/dictionary/aya世代
(インタビュー 2017年11月)

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― がん種と診断時の状況、経過を教えてください。

 

左肺下葉原発性肺がんで、ALK融合遺伝子を持っている肺腺がんになります。縦隔リンパ節、左の副腎に転移があり、診断時のステージは4期でした。2013年8月19日に診断を受けて、それからセカンドオピニオンを同年の9月4日に受けたので、実際の治療開始は9月の中旬あたりから始まりました。手術はしていません。最初はザーコリを服用しました。ザーコリは既に発売されていたので、治験ではありません。

 

その後、2014年12月に脳転移の疑いがあるって言われて、サイバーナイフをできる病院を紹介してもらいました。そこでMRIを撮ったら、大丈夫でしょうみたいな感じになって、すぐには照射しませんでした。翌年の2015年7月あたりに、ちょっと多くもなってきているし、ここで一度やりましょうっていうことで、9か所に照射しました。9月にも4か所照射しました。その間はずっとザーコリを継続しています。原発もほぼほぼない感じでしたし、脳以外の転移も無くなっていました。ただ、白血球が少なくなってきちゃって、白血球を増やす注射を3、4カ月間、診察時に打ってもらっていました。

 

アレセンサが出てきて、脳転移によく効くよと言われて、アレセンサに切り替えました。2015年10月だったかな。2年強服用していたザーコリは脳転移以外には効いていました。

 

今年(2017年)4月に、また脳転移が見つかって4カ所放射線を当てました。照射部分は小さくなってるんですけど、一部前葉のところに水ぶくれみたいな、何か袋状のものができていて、それに伴う浮腫もできてしまっているのが現状です。サイバーナイフをかけて、なくなるかどうかはわからないと言われて、今はまだ様子見です。とりあえず今年はもういじりたくはないので、もし手術をするんだったら、来年かな。肺を診てもらっているがんセンターの脳外科に戻してもらって、そっちの先生の見立てで手術して取るのか、あと何か他のやり方か。

 

脳転移による、何かしらの身体症状は何も出ていません。生活とか仕事とか、全然影響は出ていません。ただ、出るとしたら、ぼーとするよとは言われているので、もしかしたら、他の人から見ればちょっとぼーっとしてる可能性はあるんですけど、自分としては普通に生活してるレベルだと思っています。

 

ザーコリの副作用は、味覚障がいと、起きたときの目のもやもや。コーヒーとか、カレーとか、すごいまずく感じちゃって。苦味のあるものがおいしくなくて、甘みのあるものは何とか大丈夫でしたけど、無理して食べてましたね。でも、半年ぐらいで落ち着きました。アレセンサはそういった副作用は全然ないですね。

 

 

 


― どうやってがんが分かったのですか。その時の様子を教えてください。

 

2013年の27歳のときに、会社の健康診断のX線がD判定で、再検査って言われました。すぐ予約して、CTを撮ったら、もう影がはっきり見えるので、専門の病院に行くようにいわれました。前の年にも健康診断を受けていたのですが、何もなかったです。それなのに、いきなりで、えー?みたいな。D判定出ちゃったって、他のいろんな人に言ったら、もしかしたら見間違いっていうこともあるかもしれないから、とりあえず再検査しなよみたいな感じでした。お母さんは、早く再検査はしなきゃいけないよって。それで何もなかったら別にいいんだしみたいな感じで。すぐ再検査はしましたけど。

咳のような自覚症状はなかったですが、よくよく思えば、寝てたときに左腕がしびれて動かないときが何回かあったんですよ。本当に全く動かなくて、もう自分で動かすみたいな。ただ、体重でしびれることがあるかなみたいに思っていました。あと階段上がるとき、ちょっと疲れやすいなって。運動不足かなと。

 

 

CTでは明らかに影がありましたが、細胞見てみないと確定できないので、がんセンターを紹介してもらって、そこに紹介状を持っていって、そこからいろんな一連の検査を8月いっぱいやっていました。内視鏡で生検するときが一番つらかったです。死にそうになりました。通院でやったのですが、その後3、4日、40℃ぐらい熱が出ました。EGFR陰性の結果が出た後、ALKの検査をしたので、最終診断結果を聞いたのはALKの結果が出たあとでした。

 

そのときの主治医は、何で手術はいけないのかとか、放射線はできないとか、そういう説明がなくて、治療はもう分子標的薬、これでいきますんでみたいな感じでした。こっちは全然知識ないから、え?みたいな。

 

母の友達がいろいろ調べてくれて、肺がんだったらがん研有明に聞きに行ってみたらと進めてくれて、母がじゃあセカンドオピニオン受けようかって言ったんです。主治医の先生にセカンドオピニオンを受けたいので資料を作ってもらえませんかって言ったら、ちゃんとやってくれました。嫌がる先生もいるらしいですが、淡々とやってくれました。

 

そして、がん研有明で非常に丁寧に説明をしてもらえました。もう4期で全身転移してるから、一部取ったとしてもほかに出てきちゃうから、体力がもたないから手術はできないよ。放射線も同じ理由だよっていって。今、良く効く分子標的薬の薬があるから、それでやっていこうって。同じ考えだから、やるんだったらやっぱり家の近くのほうがいいんじゃない?っていうふうに言われて、もしまた何かあったときはセカンドオピニオンに来てもいいですかって言ったら、いいよって言われたので、納得して淡々とした地元の主治医のところに戻って治療を開始しました。
 

 

 


― がんと分かってどのような気持ちになりましたか。また手術も放射線もできないということが分かって、ショックでしたか。

 

最初の再検査のCTのときに、影があるから多分そうでしょうって言われたときに、お母さんにごめんねって言って泣きましたね。お母さんは、まあ気にしないで、しょうがないよって。それはもう誰がなるかわかんないからしょうがないよっていうふうには言ってくれました。

 

一連の検査が終わって、主治医の診断を受けるときは、もうがんだってわかったので、別にそんな、はーんみたいな(笑)、気持ち。私的にはやっぱ?みたいな(笑)。CTに影があったときの衝撃のほうが大きかったですね。その衝撃を超えたらもうあとは、だんだん、そう、がんでしょ、みたいな(笑)。

 

ただ、ステージ1か2か3ぐらいかなと思ってたんですけど、4だったんで、それはちょっとびっくりしました。え、4?みたいな(笑)。4?死ぬ?と(笑)。それはちょっと思いました。がんという心構えができていたので。主治医の診断のときは別に泣き崩れるとかはなかったです。淡々とやっぱそうですよねみたいな。

 

母と弟と診断結果を聞きに行きました。父は仕事で来られませんでしたが、いなくてもいいか、みたいな感じ(笑)。父はあんまり話さない性格だから、特に何も話しませんでした。病気をすごく調べるわけでもないし、たばこをやめるわけでもなかったし。父と母より2歳下の弟が結構調べてくれたかな。周りの人にいろいろ聞いたりとかしてくれて。弟は影で泣いてたかもしれないですけど、一緒に泣くことはなかったです。

 

私は表では至って普通なんですよ。病気がわかる前と一緒で。家族とも急に仲良しになるわけでもなく、かといって急によそよそしくなるわけでもなく、まあ、基本このままだったので。薬飲み始めてからも、家にずっといて寝てるだけだったんですけど、私はすごい気持ちが沈んでるわけではなくて、今のような普通の状態でした。家族から「病人とは思わないからね、普通に接するから」っていうふうに言われて、それが一番救いだったかな。

手術、放射線出来なくてショックはありませんでした。分子標的薬で治療出来て良かったです。
 


― メンタルが強いですよね。

 

多分そう。もともとそういう性格もあるし、ああ、なっちゃったって。仕事を週6で勤めてて、ちょっと休みたいなとかって思ってた時期もあったので、やった、夏休みもらえたっていう(笑)。やっと休みが取れると思って(笑)。

 

 


 
― これまでお仕事はどうしてきましたか。

 

 

がんが発覚した当時、仕事はお弁当屋さんで、立ち仕事でした。

その後、発覚後3、4カ月経ってそのお弁当屋さんは辞めました。なぜかというと、薬が効いてて元気なんですけど、やっぱり立ち仕事なんで、ふらふらしてしまって。店長さんも調子いいときに来なみたいな感じで言ってくれたんですけど、行くとふらふらしちゃうし、レジだけしかやらないというわけにもいかなくって。調子がいいときは遊びに行ったりしてるんだけど、お弁当屋さんの仕事もしないで遊んでる私ってどうなの?とストレスになってしまって、店長さんにちょっと一回辞めたいですって言ったら、うん、気にしないで、辞めてもいいよということで、辞めました。

 

お母さんには相談したかな。それがストレスなら一回辞めればって言って。一回とりあえず生きることに専念したらって。

 

そのあとはとりあえず1年間、何もせず、調子のいいときは、ぶらぶら遊びに行ったり、家族や友達と旅行行ったりしてました。

 

1年ぐらいたってから、じゃあちょっと体も元に戻ってきたし、かといってお弁当屋さんの立ち仕事ができるほどの体力はまだないから、ちょっと違うところに就職しようかなと思って、某事務所の事務補助でアルバイトをさせてもらいました。

 

ハローワークの長期療養者向けの窓口に相談して、病名も全部言って、相談員さんが探してくれて、応募をして、就職しました。事務補助で、パソコン入力がほとんど。1日に3、4時間勤務で、最初は週2日で、のちに週3日でした。書類を役場とかに持っていったりする外回りもやってましたけど、ほとんど入力ですね。

 

そこは、1年半で辞めました。採用されるときに病気のことは言ってはいるんですけど、何せこういう体なので、健康な人と大して変わらない。最初はできる範囲でいいよと言ってくれてはいたんですけど、求める技術レベルが上がってきて。何でこれできないの?みたいな感じで。え?と思って(笑)。私の病気のことは、事務所の全員が一応知ってたとは思います。

1年半経って、またストレスになって。それでちょっと気が滅入ってしまって、気分が落ちちゃったときがありました。もうだめーみたいな感じで泣きました。病気のときは大丈夫だったのに、仕事でうえーって泣いて。

家族はそんなに辛いんだったら辞めれば?また違うとこ探せば?みたいな感じでした。治療費を全部自分で稼げという親ではなくて、お小遣いぐらいは自分で稼いでねみたいな感じで、甘えちゃってるんですけど(笑)。

 

某事務所を辞めて、前に勤めてたお弁当屋さんの店長に電話して、戻りたいですって言いました。もともとそのお弁当屋さんで働いているときが一番楽しかった。週に3回、1回3時間か4時間働いてます。午後に行って、午後の準備して、帰ってくるような感じです。仕事行くのは、やっぱ楽しい。某事務所のときは、お風呂の中で泣いたりしてましたけど(笑)。

 

 

週に3回、1回3,4時間では、治療費全額は賄えないので、貯金を崩しています。自分のケータイ代だとか、あと旅行などの遊びのお金にお弁当屋さんのバイト代を使っています。貯金も限度があるわけで、将来には不安がありますね。

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