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体験者インタビュー・長谷川一男 その1

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― 自己紹介

 

 

 

長谷川一男といいます。45歳です。39歳のときに発病したので、今年2月で8年目になります。EGFRとかALKなどの遺伝子変異を持ってないので、遺伝子なしのタイプですね。家族は妻と子どもが2人。横浜に住んでいます。一応フリーのテレビディレクターをやっていました。今もやっているんですけど開店休業みたいな感じです。ものすごい咳が出て病院に行ったらステージ4。そして、月刻みの余命を言われる、そういう感じで患者生活が始まりました。

 

 

 

  

― 発病してから5年が過ぎて、長谷川さんは肺がんの患者会ワンステップを立ち上げます。設立の動機、きっかけとは。ひとつは、患者体験の知恵が蓄積され、継承される受け皿が必要と感じたから。

 

 

 

肺がん患者のお仲間ができて、「患者会とかできたらいいねー」なんて言っていたというのがまずあります。でも、だんだんと具合が悪くなってくる人も出てきて、言っているだけではなかなかできない。そんな中でTamyさんというEGFRの方がいて、何の薬を使ったとか、副作用がどうだったとか、全部細かくホームページで紹介していました。さらにそのホームページの掲示板では、患者が活発にいろんなQ&Aとか相談みたいなことをやっていたんです。それがすごくて、別に僕EGFRではないんですけど、掲示板に行ったり、Tamyさんの薬や副作用の経験を読んだりして、そうかそうかって思っていました。居場所みたいなところだったんです。

 

ところが、そのホームページは今存在してないんですよね。ホームページは維持費がかかるので、その方がいなくなってしまうと消えてしまいます。いろんな患者さんがそこに集まってきて、その患者さんの体験とか知恵とか、そういったものがそこのホームページにはものすごく詰まっているのに、それが消えてしまった。自分の中で耐えられなかったです。そんな思いがあって、患者の体験や知恵が蓄積されていくもの、継承されていくもの、そういったものが何かできないかなと思って、患者会を作ろうと思いました。

 

 

 

― ワンステップの設立きっかけのもうひとつは、「僕を助けてくれるかもしれないから」。エピソードは二つあって、治療が行き詰まって、追い込まれ、助けを求めたかった。

 

 

 

5年の節目で僕は再発しておなかに複数の転移ができました。腹膜とかリンパとかいろいろ。しかも薬はもう8個とか使っているので、残りの選択肢も限られてきている。放射線も手術もできない。それなのに、僕は手術ができるって思い込んで、おなかのスペシャリストのところに行って、「(手術できるという考えは)ばかじゃないの」って言われ、断られて帰ってくるという経験をしています。つまり、再発転移の追い詰められた状況で、しかも複数転移したっていうことで正常な判断が全くできてない。そのような状況に追い込まれていったんですよね。

 

そのちょうど3カ月後くらいに患者会がスタートするんです。本当にもう僕自身何もなくて、ないんですよ、もう次にやるものが。そこで、患者会を通して誰か助けてくれるんじゃないのかなっていう、そういう流れです。ホームページも、皆さんの質問とか相談に乗りますよって書いてありますが、それと同時に僕の相談にものってもらいますからねとか、ちゃんと書いてあって、双方向に一応なっています。Tamyさんが作ってくれたものもそういうものでした。

 

 

 

― もうひとつのエピソード。生きていくうえで、働かなくてはいけない、何かをしなくてはいけない。

 

 

 

2年目に手術をしたあと合併症となって、1年間は入退院繰り返し。3年目は週7回毎日通院していて、でも、4年目から週5回くらいになって、働けるって思いだす。半日は通院でつぶれるので、1日3、4時間で、毎日はできないから週3日とか4日とか、そういう条件で働こうと思いだしました。最初にやったのは、障がい者手帳を取ることでした。肺が半分しかないので、すぐに手帳をもらえましたよ。

 

一定規模以上の企業は、一定割合の障がい者を雇用しなくてはいけないというルールがあります。だから、障がい者手帳を持っていたほうが、就職しやすいだろうと思いました。それで、さきほど言った条件でハローワーク行って調べたんです。だけど、月5万円くらいなんですよね。いや、5万円もいかない。あれっ、俺5万円なの?俺の値打ちは5万円かみたいな気持ちになりました。本当にちょっと耐えきれなかったですよね。

 

そのあとどうしたかというと、今度は横浜で障がい者の合同就職説明会があって、そこで探してみました。でも、会場に行ってみたはいいんですけど、面接に行けない。すぐ目の前で面接いっぱいしているのに。心の中で、この条件だと誰も雇ってくれないんじゃないか、ステージ4で週5回通院していて、そもそも働くことに関して誰も認めてくれないんじゃないかと。ぐずぐずして面接しないの、せっかく会場まで行ったのに。

 

そうしていると、隣には知的障がい者の高校生のグループがいて、その子たちが一生懸命、面接しているんですよね。先生が不安な顔して生徒たちを見ていて、生徒も真面目に面接を繰り返している。そんな感じの風景が、同じ会場の、僕の隣にありました。

 

置かれた場所で精いっぱい頑張っている人たちがそこにいたんです。ひるがえって、僕のほうは、5万円じゃ嫌だとか、合同説明会に行ったにもかかわらず、俺は相手にされないんじゃないかとか、ぐずぐず言って、面接もしない。耐えられなくてそのまま逃げ帰った。あっ、俺ってちっちゃいんだな、そう思った。そんな経験をしました。

 

 

 

― そして、テレビディレクターとして復活。

 

 

 

そのあとは、就職活動は保留にして、人に会うと「昔は俺ディレクターやっていたんだよ。〇〇番組知っている?」って、聞かれてもいないのに言うようになりだしました。要は昔自慢を始めるんです。昔自慢なんて、だめな人の典型。気がつくと自分の一番嫌だと思われる人間に自分がなってしまった感じでした。すると、もういてもたってもいわれなくなるんですね。だめだ、ちょっとこれまずい、こんなの俺じゃないとか思って、再び働こうとするわけです。

 

昔の仲間のところ、BS朝日の『ザ・インタビュー』っていう番組なんですが、土日の夜6時ぐらいからやっている番組です。いい番組ですので見てください。その番組にディレクターとして一応復活しました。会社員としてではなくて、フリーとして雇ってもらえた。配慮してもらいながら、仕事をやりました。2本ぐらいやったんですけど、さっきの話にもどります。そこでおなかの中に複数転移が起こるんですよね。どーんと倒れるようなことが起こって、もうそのテレビ番組もできない、働けない。

 

 

じゃあ、これから、長谷川さん、あなたはどうやって生きていくんですか、と思いめぐらしたときに、もう普通の生活ができないのであれば、別にテレビじゃなくても、情報発信ということはできるのでないか、自分がやってきた今までのことを自分ができる範囲でやればいいのではないか、とそう思ったんです。だから、知って考えることを目指した、情報発信っていうところを肝に据えた患者会をスタートしたのです。

 

もうどうにもこうにもなんない感じで落ちてって、何とかやろうとしたけど、病気がそれを許してくれなくて、また落ちて、でも、何とかしなきゃいけないなっていうことでワンステップを始めたのです。自分を助けてくれるんじゃないかって、ここにつながってくるんです。

 

 

 

 

― ワンステップの目指すものは、「お仲間づくり」と「知って考える」

 

 

 

 

ワンステップの目指すものは「お仲間を作りましょう」っていうのがまず一つです。読んでいる皆さんも思いは同じだと思うんですけど、どうしてもがん患者だと山あり谷ありというか、いつも右往左往していて何とか自分を保っていますという状態ではないでしょうか。そういう患者さんの居場所みたいなものを作りたい。お仲間みんなで「あるある話」をして、少しでも普通の生活に少し役立つようなものができるといいなと思っています。

 

あともう一つ、「知って考える」。ワンステップで、すごく大切にしている言葉です。治療に関しては単純に先生から言われたことを、そのまんま「はいはい」と言って受け身でやるのではなくて、どうしてその治療になるのか、何故それがいいのかというようなことを自分でも調べるし、先生にもとことん聞く。そういったことを大切にしたいなと思っています。

 

ステージ4だと、医者は治りますとは言ってくれないですよね。そこで、悪くなっていくことをどうやったら許容できるかというと、治療の節目にちゃんと納得して治療を選ぶ、それを繰り返していくことではないかと思っています。逆に、先生のことをそのまま聞いて、あの方法もあったんじゃないか、この方法もあったんじゃないか、そういうことをぐずぐず思って、不安になって、そのままどんどん悪くなっていくっていう状況は、僕の中では許容できないです。

 

「お仲間を作りましょう」と「知って考える」、この2本立てが基本的にはワンステップの目指すところというふうに思っています。

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